因縁消滅マニュアル

 

仏教系の宗教や霊能者から、人生に不幸が多いのは先祖からの因縁のせいだと言われた事のある人も多いのではないでしょうか。
私自身も、その一人で霊的現象による苦痛に悩まされ、医師の診断を受ければ、精神病と診断されていた頃、仏教系の僧侶や霊能者によく言われました。
因縁消滅の為に読経し写経し断食し滝に打たれ、瞑想し、激しく修行したものです。
修行により、一時的に霊障が軽くなるので、どんどんのめり込みました。ラッキーな出来事があれば信仰のおかげだと、その頃はそう信じていました。
かなりのお金を投資し先祖からの因縁を消滅させようとしましたが、結果としては、霊的苦痛を、どんどん悪化させただけでした。

しかし、今では霊的苦痛もなく毎日を楽しく幸せに過ごすことが出来ます。仏教的に言えば先祖からの因縁から解放されたという事になるのでしょうが、皮肉なことに私の場合、仏教での教義を否定的に捉えることにより幸せを得る事が出来ました。

ここには、私と同じように仏教系の宗教や霊能者に騙されている方々のために、先祖からの因縁と言われているモノから解放される為の方法を記しておきます。
言うなれば「先祖からの因縁消滅マニュアル」です。

 

 

第一章 大自然の法則


自己改善が出来れば、俗にいう「先祖からの因縁」から解放されるのですが、その為には、自分が過ごす世界の仕組みや人間という生き物を知る必要があります。

 

1、「先祖からの因縁」とは何か?

私たちは、先祖からの経験値を受け継いで生まれてきます。先祖から受け継いだ経験値を元に自分自身の人格が創られているのです。楽しいと感じる事、美味しいと感じる食べ物、嫌な事、うれしい事など自分自身の価値観が他人と異なるのは、それぞれの先祖の経験値がことなっている為です。自分自身の価値観のスタートは、自分の先祖の経験値が元になっています。私の知人の名疫学の医学博士の先生曰く、病気は遺伝しないそうです。なぜ?先祖と同じ病気になるのか?は、先祖の性格が自分自身に遺伝し、同じよな性格になります。その為、病気になった先祖と同じ生活態度を繰り返すために同じ病気になるそうです。

この事を、仏教で言われている「先祖からの因縁」に当てはめて考えると、先祖からの因縁により起きる不幸な出来事は、先祖から受け継いだ自分自身の性格が引き起こしている事になります。(先祖からの因縁=自己の人格)という事になります。

私は、実際にその通りではないか?とそう思い、自分自身を省みる事を繰り返し、自己改善を積み重ねることにより、幸せを掴む事ができました。

私は、よく「先祖の悪行により、その先祖を恨んでいる人たちが貴方という子孫に悪影響を与えている」と言われてきたのですが、「自分自身に起きる不幸な出来事は、先祖の行いの影響を受けている。」というのは、間違いではないでしょう。ただし、自己の不幸があたかも先祖の行いのせいだとするのは間違いだという事です。悪行を行った先祖と自分自身は同じ性格をしていて、無意のうちに同じような言動を繰り返している為、同じように他人から恨まれたり、同じ病気になったり、辛い現実と向き合うことになっているという事です。

すなわち、いくら先祖供養しようが、いくら因縁消滅の祈願をしようが、自分自身が変わらない限り、目前の苦悩から解放される事はないという事です。そもそも「供養」という考え方にも疑問しかありません。


 

2、自己改善により現実が変わる仕組み

昔から「縁」という言葉がありますが、この「縁」をつくる仕組みが、人それぞれの出来事を引き起こします。また、この「縁」は自分自身のエネルギーが創り出してます。

人は、誰しも自己のエネルギーを放出しており、そのエネルギーは強大です。その自己のエネルギーは、自分自身の思いや言動が創り出しており、自分自身の血肉に刻まれ蓄積され続けています。過去からの経験値が自らのエネルギーとなり常に自分自身から放出され続けているのです。普段の生活で何を思い、どんな言動をしてきたかによって、自分自身は放出するエネルギーは異なるのです。

私たちは、言葉や文章で他人とコミュニケーションをはかりますが、「思い」という感情が生み出すエネルギーが特に強く蓄積されて行きます。いくら笑顔で他人と接していても、心の中で相手に憤りを感じていれば、憤りを感じた思いが強く蓄積されるのです。
 

例えば、自動車で信号待ちをしている時に、後ろから追突され交通事故を起こしたとします。この場合、私たちの社会では、追突した側が加害者で「悪」とされますが、実際には追突された被害者にも大きな原因があります。追突した側と追突された側には、それぞれが放出する自己のエネルギーが引き合って事故を引き起こしているからです。
実際に、立て続けに車をぶつけてしまい、「最近ついていないな~」と思ってしまうような経験をした方も多いのではないでしょうか。嫌な出来事が何度も起きるのは、自分自身が放つエネルギーが原因なので、自己改善が必要だという事になります。また、自己改善する事で、立て続けに起きる嫌な出来事から解放されるでしょう。

 

3、人生とは・・生きるとは・・

 

「人生とは、何だろう?」と、そんな事を考える事もあるでしょう。日本神道では、人生は「御霊磨き」と言い、魂を磨く事としますが、私自身は利他的な心を育む事が人生だとそう思っています。

人は、誰しも生まれながらにして利己的な思考を植え付けられています。無意識に自分本位な考え方の下で言動を繰り返すように創られているのです。しかし、実際に自分自身が生まれ落ちた、この世界で生きる為には、自分以外の存在との関わりの中でしか生きる事が出来ません。すなわち利他的な思いが必要不可欠なのです。

利己的な思考を植え付けられた私たちは、自分勝手な思考で物事を判断することを優先してしまいます。しかしながら、自分以外との関わりの中でしか生きて行けない世界で生活している為、自分以外の存在の事を考えながら、その関りを考慮しながら過ごす必要があります。そうしなければ、自分以外との関係がうまく保てず、嫌な出来事や辛い出来事ばかりとなり、挙句の果て生きる事が辛く苦しいものとなり、自分自身の存在に疑問を抱く事になるでしょう。

利己的な我欲のみで過ごしていると、辛く苦しい現実を突きつけられる事になるのですが、そんな出来事が起きるたびに、己の至らない所を探す事ができると、利他的な心が育って行きます。逆に、それが出来なければ、辛く苦しい出来事がどんどん増えてゆくことになります。

従って、人生とは目の前の多くに感謝し、世の中に尽くす生き方をしてゆく事であり、それが出来れば、誰しもが幸せになれるという事です。逆を言えば、損得勘定ばかりで利己的な我欲を満たすためだけに生きると、辛く苦しい人生になってしまうでしょう。

 

 

4、幸せとは・・

 

「幸せとは、何だろう?」と、そう考えると多くの人が自己の欲望が満たされる事だとそう思っているはずです。要するに、辛く苦しい出来事がない状態です。辛く苦しいという感情は、自己の我欲が満たされない時に感じる為、我欲が満たされ続ける生活が幸せな生活となります。

また、人は、誰しも利己的な我欲を求めるように創られて生まれてきます。従って、己の快楽を満たす事が幸せとなります。美味しいものを食べ、良い服を着て、良い家に住む、高級車に乗って贅沢ができる生活が幸せな生活だと思い、多くの人がそんな生活が出来れば、幸せな社会と言えるでしょうし、国民がそれを求めている以上、国の運営もその方向に向きます。

私は、「幸せ」と「快楽」は、全く別物だと思っています。なぜならば、快楽をいくら満たしても、一時的なものに過ぎず、永遠に満たされる事はないからです。普段食べているものより、美味しいものを食べれば、その時は幸せを感じるでしょう。しかし、その食べ物を毎日食べさせられれば、辛く苦しい出来事に変わるでしょう。従って、快楽をいくら満たした所で、幸せにはなれないのです。

私は、普段の生活の中で、己の心を成長させ、「何事にも感謝できる心」「他を思いやり幸せを願える心」これらの思いを養った時に手に入るのが「幸せ」だと、そう思っています。また、そう思えないだけで「不幸」に感じて過ごす事になるのが、我々が今過ごしている大自然の仕組みだと、そう感じます。

従って、幸せを掴むためには、何事にも感謝し、他人の幸せを思いやる気持ちで過ごす必要があるという事です。

 

5、利己的な我欲が事実を見えなくする仕組み


誰しも自分以外の存在がなければ、生きる事はできません。自分以外との関わりの中で初めて生きる事が出来るのです。従って、自分以外を知れば知るほど、普段の生活は過ごしやすくなります。

しかし、私たちは、何でも自分の思い通りにしたいという利己的な欲望をもって生まれて来る為、自分自身にメリットがあるか?否か?で物事を判断し、自分が興味を示すものも、自己の欲望を満たすものとなり、偏った情報のみしか収集しようとしません。また、自己の欲望を満たす事を優先してしまう為、自分自身の価値観でしか物事を判断せず、どうしても人と人とは争ってしまうのです。

すなわち、己の我欲が強ければ強いほど、自己の欲望を満たすための視点でしか、物事を判断しなくなります。自分に都合の悪い情報は悉く無視をしてしまい、偏った情報のみしか得ようとしない為、事実が見えなくなってしまうのです。

事実を直視できなくなると、嫌な出来事が起きても、その原因が見えなくなります。嫌な出来事が起きる原因を自分の欲望を満たす方向でしか考えられないので、いつまで経っても原因を解決できない為、何度も嫌な出来事を繰り返すことになるでしょう。

嫌な出来事が続き、その原因が何なのか?全く解らなければ、困っている所に宗教との出会いがあり、「先祖からの因縁」のせいと言われる事で、納得することが出来ます。嫌な出来事は、ただ単に他人を思いやる言動ができない為に起きているだけなのに、自分以外の存在を深く理解しよとしないが為に、その事実に全く気付くことが出来なくなるのです。

私が激しく修行している頃、疑問に感じた仏教の教義にちゃんと答えてくれる僧侶は一人もいませんでした。なぜならば、仏教は「魂」に意思がある事が大前提だからです。「魂」に意思があり、死後の世界は本当に存在する。・・これを否定してしまえば、仏教は成り立たないのでしょう。私自身、「魂」に意思はなく「肉体」が先祖の経験を引き継いでいると、そう確信した時、仏教の修行で抱いた疑問の辻褄があって行きました。その結果、激しく修行している時には、一向になくならなかった霊的苦痛から解放されたのです。仏教から離れる事で長年の苦しみから解放されたのです。
 

 

 

 

第二章 仏教の嘘


宗教の教えを信じ、自己の苦境は「先祖からの因縁」のせいだとそう思ってしまうのは、私たちの生活に馴染んでいる古くからの仏教の教えも原因の一つだと感じています。私自身、先祖代々引き継がれた仏教の檀家に生まれ、幼いころから当たり前のように仏教式で葬式などの法要を経験しており、その行為について深く考えた事はありませんでした。しかし、激しく修行を積み重ねる事により、様々な仏教教義に疑問を抱くようになってゆき、それらの教義はただの妄想ではないか?とそう思うようになりました。ひとつひとつ教義を検証してゆくと、ただ単に仏教徒を集めるのに都合の良い教義になっているだけのように思えてならないのです。
ここに、私自身が感じる仏教教義の疑問について記しておきます。

 

1、魂に意思など存在しない。

葬式仏教と言われるように、仏教式の葬儀をする家庭が多いのですが、仏教では、死後の世界を唱える事が多いからでしょう。代表的な言葉は「供養」「成仏」であり、先祖供養は仏教で最も大切な行為と言えます。経典を唱え「供養」すると、故人があの世で「成仏」する。すなわち幸せになれる、という考え方です。これらの行為は、「死」により肉体を失っても「魂」は生きているという考え方が根本にあるからでしょう。

では、「魂」に記憶はあり意思はあるのか?
私自身、「魂」には記憶や意思があると、そう信じていた頃がありました。理由は、簡単で「霊」を目視したり話が出来たからです。「霊体」は、人の死後、肉体を失った状態だとそう思っていましたし、仏教や新興宗教でもそのような扱いをされています。

しかし、私の場合、極度に霊感が強く、普段から普通に「霊」と接していると、色々と不可解に感じる事が増えました。「霊体」としっかりした対話が成り立たないのです。生前の事を詳しく聞いてもしっかりと答えられる「霊体」などいません。住所は?電話番号は?兄弟は?友人は?生前の仕事は?などなど、詳しく聞いても答えてくれません。一方的に自分の思いを伝えてくるばかりです。様々な霊能者のところへ赴き、霊媒者や審神者を交えた交霊術をしても同じです。また、この事から「霊体」は、ただの「人の想念」に過ぎないと、そう思うようになりました。「生霊」が存在している事を考えれば、「生霊」の「魂」は?となり、「霊体」は、人の想念に過ぎないと、そう考えた方が納得できます。また、様々な臨死体験が報告されていますが、生きている状態で起きている事ですし、自分の意志で幽体離脱は起こせるので、「死」とは、無関係でしょう。

「霊体」に意思がないのであれば、「霊体」には「魂」は宿っていないのか?とそう思うようになりました。では「魂」とは何でしょう?
私自身、祖母を看取った時と、保護した猫が間に合わず亡くなった時に、「魂」が肉体から抜けるのを見た事があります。よく漫画などで描かれている状態と同じですね。私には、そんな経験があるので、それを「魂」とするのならば、「魂」は存在するのでしょう。ただ、「魂」に意思があるか?は別問題なのです。私の仮説になりますが、「魂」は、ただの生命エネルギーの塊であり、そこに意思など存在しないとそう思っています。従って、すべての人は、死んでから苦しむ事などありません。天国も地獄もないのです。そうなると仏教の教義は一体なんなのだ!?となります。

私たちは先祖から多くを引き継いで生まれてきます。これは、血による影響で起きる現象であり、生まれる前の記憶などは、血によって引き継いでいるから感じるだけなのです。「魂」に意思があるわけではなく、「肉体」に意思があるという事です。仏教的には「肉体」に意思があるのは、都合が悪いでしょう。土葬にしろ火葬にしろ、肉体は失われますからね。死んだら終わりになってしまいます。しかし、人の死に立ち会えば、私のように「魂」から肉体から抜ける状況を見る人もいますし、「霊体」を見る人もたくさんいます。また、人は「死」に対して恐怖を抱くように創られて生まれて来るので、死後の世界を畏怖の対象とした宗教が社会に馴染むのも仕方のない事なのかもしれません。

 

2、「成仏」とは?「供養」とは?「先祖供養とは?」

「成仏」とは「仏」に「成る」事で、悟りを開いた状態になる事とされています。煩悩を断ち切り「解脱」した状態とも言われています。また、「供養」とは、故人が死後の世界で幸せになりますよにと祈りを捧げる事を言います。そして、仏教徒の皆さんは、ご先祖様が成仏しますように・・と、先祖供養をします。「成仏」という言葉は、あの世で幸せになる事という意味で使われていますね。

しかし、「死後」の世界は本当にあるのでしょうか?死後の世界より、今私たちが過ごしている現世の方が大切ででしょう。そもそも現世を過ごしやすくするために信仰している人がほとんどです。仮に死後の世界があったとしても「魂」に記憶や意思がないのに、どうして幸せを祈る必要があるのでしょう?ご先祖様があって、今の自分があるので、先祖を敬う気持ちはとても大切だと思いますが、「先祖供養」ではなく、ご先祖様を敬う気持ちを捧げる方が、有意義な日々を送れるように感じます。

私は霊的苦痛で悩んでいる頃、仏教系の宗教の方々に「先祖からの因縁消滅の為に先祖供養をしなさい。」と、よく言われました。「悪いことをした先祖がいるから不幸な事が続ているので、その先祖を供養しなさい。」という事で、当時の私は、言われたとおりに読経したり写経したりしたものです。悪いことをした「先祖が、成仏すれば自分の苦難がなくなると信じて、せっせせっせと先祖供養をしたのですが、そのうち違和感を感じるようになりました。

自分自身の苦難をなくすために、先祖が成仏する事を祈るのは、そもそもご先祖様の事など何とも思っていないからです。自問を繰り返しました。「もし自分自身に苦難がなければ?」「もし先祖供養に見返りがなければ?」今続けている読経や写経をすることが出来るのか?と。最初は自分自身をごまかしていましたが、そのうち、はっきりと見返りがなければ先祖供養などしない自分が明確になりました。仮に亡くなった先祖に意思があったとして、こんな気持ちで先祖供養しても、先祖は嬉しくもないだろうと、そう思うようになり、無駄な事を何年もしてきたものだと情けなくなったものです。そもそも、亡くなった先祖に意思があるのか?と、この頃からそう思うようになったのです。
 

3、勤行により救われるのか?欲望は満たされるのか?


結論から申しますと、「救われる」を苦難から脱する事とし、我欲を満たす事とすれば、勤行により自己の我欲は満たされます。しかし、それは一時的なものであり人生という長いスパンで捉えるとマイナスになるでしょう。

「人を呪えば穴二つ」という言葉がありますが、この仕組みを利用したのが呪術です。祈願して我欲が満たされるのも同じ仕組みでしょう。私は、密教呪術を学んだ事があるのですが、術を達成する為に代償を前払いします。例えば、「お金に困っているので、お金が欲しい!」そんな人の為にお金が入るよう祈願します。何日も断食をしながら護摩を焚き、また、滝に打たれながら祈願する。そこに費やした時間と労力が大きければ大きいほど、手に入るお金が多くなります。自分自身を苦しめるという行為が代償となり先払いするからです。ただし、祈願した人だけではなく、お金を手に入れた人やその周りにも代償は降りかかります。

宗教などで読経する勤行にも似たような効果はあるのですが、読経のみではそうそう我欲は満たされないでしょう。ただ、経典には、自らの穢れを浄化する効果がある為、自分自身が放つエネルギーが変わり、苦難から一時的に解放される事もあります。しかし、自己が生み出した穢れの原因は自分自身にあるので、時と共に穢れてしまい、また苦難が訪れる事になります。

私自身、何度も摩訶不思議な状態で苦難から脱する経験をした事があります。数百万というあぶく銭を何度も手にした事もあります。その時は、神々に助けられた!なんて思ったものですが、長いスパンで考えると、自分自身に降りかかる苦難がなくなる訳ではありませんでした。しかも、当時の私が自己中心的な思考が強かったので全く気付きませんでしたが、後々振り返ると、身内にも苦難が降りかかっていたように思います。私は、除霊行為をしていた頃があるのですが、一日に何人も除霊をすると必ず娘が寝込んでいましたしね。元安倍首相を殺害した山上氏も同じ現象の結果でしょう。

この現象は、大自然の法則なのです。大自然は、私たちに心を利他的な思いへと成長させるために出来事を引き起こしているので、利己的な行為に対して苦難を与え、また、心の成長がなくても苦難を与えてきます。従って、勤行で我欲を満たす行為や因縁消滅の先祖供養などの行為は、明らかに自己の心の成長を止める行為なので、苦難を呼び寄せる行為となるでしょう。しかし、経典には穢れを浄化させる効果があるので、一時的に苦難から解放される為、そのことに気付くことが出来ず、家族や血族がその代償という苦難を被ることになります。

 

4、「貪瞋痴」を意識しすぎると苦難から抜けられない


仏教には「三毒」貪瞋痴という言葉があり、特に重要視されている言葉です。(三毒wiki)

貪を我欲
瞋を負の感情
痴を無知
とするのですが、負の感情は自分自身で簡単にコントロールできるものであありません。なぜならば、自分自身の人格は先祖から引き継いだものであり、自らの血肉に刻まれた経験値が、感情をコントロールするからです。従って、いくらダメだと解っていても、自分の意思を無視して体が勝手にそうなってしまうのです。

実際に本職の僧侶でさえ、この「三毒」をクリアした人に、私は会った事がありません。本職の方々にできない事を一般人にできる訳がないのです。私自身、本職の住職に何度も「三毒」との向き合い方を聞いた事がありますが、明確な答えを頂いた事はありませんでした。「御仏を信じれば救われる」とか「経典を唱え続ければその内わかるようになる」とか、そんな誤魔化しとしか言いようがない事を言われながら10年以上激しく修行しましたが、ただ単に霊的苦痛が増しただけでした。

私が思うに「貪」という我欲は、誰にでもある欲望であり、その我欲が「痴」を生み出している。我欲が強いと自分にメリットのある情報しか得ようとしなくなるので、視野が狭くなり無知な自分に気づけなくなるのです。そして、「瞋」という感情は、先祖から受け継いだ人格が生み出しているものであり、この人格が自らの我欲の大きさに強い影響を与えている。従って、自分の意志で簡単になんとかできるものではない「瞋」を何とかしなければ、ならないのですが、仏教では「貪瞋痴」という言葉で、この三つを同等扱いし、余計に解釈を難しくしているように感じています。

おそらく、多くの人は「貪瞋痴」を意識し、自分の我欲や負の感情を抑え込もうとするでしょう、その結果ストレスがたまり心を壊したり、病気になる人もいるはずです。そもそも自分の感情を自分の意志でコントロールできるように人間は創られていませんしね。泣きたくないのに泣けてくる、怒りたくないのに起こってしまう、これが正常な人間の姿だと私はそう思います。確かに負の感情は己を蝕みますが、この負の感情を抱く仕組みや、減らす方法を明確にし、そこに向かって修行した方が、より有意義な人生を送れるはずだと、私はそう思います。実際に私は、この仏教との関りを絶ち、有意義な人生を送れるようになりました。

 

5、戒名など必要ない


親族が亡くなり檀家の寺とのやり取りで嫌気がさし、離檀したいという相談を沢山いただきます。正直私の実家も離壇し改宗して欲しいと思っています。私の実家は浄土真宗なのですが、父が亡くなった時、戒名を頂くのに80万円必要だと言われたようです。年金生活をしている母に平然とそんな請求をし、戒名を受けないと、あの世で父が彷徨う事になると言われたそうです。もう、ここまで来ると霊感商法と同じで犯罪ですよね。

「戒名」とは、死後の世界でも戒めを忘れず、幸せに過ごせるように生前の名前を捨てて名前を変えて、再スタートさせる為のものらしいです。戒名がないと、あの世に行っても、この世に未練を残したままとなり、成仏できなくなる。という考え方のようです。実に馬鹿馬鹿しい考え方ですよね。

そもそも、「あの世」なんて存在しているのか?そして、死後の「魂」に意思はあるのか?そう考えると私の解釈では「否!」なのです。生前の記憶を持っているのは、「魂」ではなく「肉体」の方ですしね。なので、仏教とは、嘘八百を並べて、貧乏人からお金を巻き上げる詐欺集団ではないのか?と、そう思ってしまいます。

亡くなった方に対して、冥福を祈るのはとても良い事だとは思いますが、そこに戒名など必要ないでしょう。わざわざ、名前を変えて誰の位牌か解らなくしてしまえば、生きている方々の思いも届きにくくなしますしね。どう考えても、檀家の方々からお金を搾取する手段の一つとしか思えません。そもそも、「魂」には意思もなければ記憶もないので、死後に苦しむ事はないでしょう。「魂」に意思があるのであれば、証明して欲しいですし、それが出来ないのであれば、ただの妄想や思い込みに過ぎないと言われても致し方ないでしょう。

離壇すると、災いが起きるなどと言われる事もあると思いますが、そんな事を言う住職がいるのであれば、しっかりと法的手段をとりましょう。立派な犯罪行為です。大切なのは、先祖を敬う気持ちがあるか?ないか?なので、その気持ちさえ忘れなければ、災いが起きる事などありません。

 

6、人の心を壊す十善戒

【十善戒】

不殺生(ふせっしょう)むやみに生き物を傷つけない
不偸盗(ふちゅうとう)ものを盗まない
不邪婬(ふじゃいん)男女の道を乱さない
不妄語(ふもうご)うそをつかない
不綺語(ふきご)無意味なおしゃべりをしない
不悪口(ふあっく)乱暴なことばを使わない
不両舌(ふりょうぜつ)筋の通らないことを言わない
不慳貪(ふけんどん)欲深いことをしない
不瞋恚(ふしんに)耐え忍んで怒らない
不邪見(ふじゃけん)まちがった考え方をしない

一見とても良い事を言っているように感じると思いますが、私は、これらの「善」を前面に出す事が宗教の信者を増やす為の常とう手段のように感じています。善悪の判断は、社会の秩序を保つために我々が心掛けないといけない事なのかもしれませんが、人として生まれている以上、この十善戒を守る事は不可能でしょう。私は、こんな生き方が出来る人は、人間ではないとさえ思ってしまいます。現に社会から犯罪者がいなくなる事はありません。大自然の法則がそうなっているからです。

想像してみてください。私たちの社会で過ごす全ての人が、この十善戒どおりに過ごしている状況を・・・はっきり言って、私は、とても気持ち悪い社会だと思いますし、そんな世界で生きたくはありません。

人は、自分本位に生きるように創られているわけであり、時に他人の悪口を言い、時に他人に迷惑をかけ、時に偉ぶり、時にざまぁ~し、時に嘘をつく。自分の価値観を他人へぶつけ、争い、その後は仲直りし絆が深まる。それが人間という生き物の醍醐味でしょう。そもそも、己の価値観は、先祖から受け継いだ人格と自らの経験で作られるものであり、同じ経験が出来ない他人と理解し合う事などできないのです。従って、「善」とは人それぞれ異なっている事になります。

また、誰しも自分に都合よく物事を判断します。
「不殺生」食肉は無暗ではないから大丈夫?どこからどこまでが(むやみ)?
「不偸盗」自然界からの搾取は、盗んだことにならない?
こうやって、一つ一つを解釈していくと、いくらでも自分の都合に当てはめる事ができるでしょう。

「この十善戒を守らなければいけない!」そう思ってしまうと、十善戒を守らない他人を許せなくなるでしょう。自らの価値観での「善」を基準として。そして、その感情が自分自身を必ず蝕みます。私は、この十善戒を守れない人たちを許す心の方が大切だとそう思っています。価値観の違う者たちが、一緒に暮らすのが私たちの社会です。当然、意見の食い違いにより感情的になる事もあるでしょう。時に欲におぼれて、周りに迷惑をかける事もあるでしょう。それが人間という生き物の本当の姿です。

そもそも、この世には善も悪もなく、「善」とは、自分に都合の良いものに過ぎないので、人によってどうにでも解釈できる、この「善」が私たちの心を壊す一番の原因だと思います。

 

 

※私の場合、仏教的信仰をやめたことで、本当の幸せを掴む事ができたと、そう思っています。それも、仏教をとことん信仰したおかげでしょう。宗教を信仰する事で人は堕落し、また、そんな人の弱さを深く学ぶ事ができました。今の私は、先祖を敬う気持ちを忘れず、その思いを捧げるようにしています。今私が幸せを感じる事が出来るのは、両親が私を産んでくれたからであり、ご先祖様あっての事だからです。血のつながりがなくても、今の豊かな日本を築いてくれたのは、間違いなく我々のご先祖様たちです。私は、神仏を敬い祈りを捧げることよりも、そんな気持ちを忘れず過ごす事の方が大切だと思いますし、その方が幸せを掴む近道だと思っています。人は、感謝する事で幸せになれますし、逆に感謝できない人には幸せは訪れないからです。

 

 

 

第三章 自己改善による因縁消滅の具体的方法


先祖からの「因縁消滅」するには、自己改善が必要不可欠です。俗にいう「先祖の因縁」とは、先祖から受け継いだ自分自身の人格だからです。誰でも、至らない所だらけなのが、人間という生き物であり、そう創られて生まれて来るので、自己改善する所がない人は存在していません。自己の人格を改善するのは本当に大変な事なのですが、自身の至らない所を探し、改善してゆくのはとても楽しい事です。自分自身が変われば、自分自身のエネルギーが変わり、同時に目前の現実も移り変わって行きます。その経験をすると、どんどん自己改善したくなり、気付けば毎日が楽しくなるはずです。
ここに私自身の経験で自己改善し、自分自身の心を成長させてきた手法を記させて頂きます。

 

 

1、何事にも感謝できるように努力する。

 

心深く感謝することが出来れば、人は、それだけで幸せになれます。

私が、仏教に強い疑問を抱くようになった頃、日本神道との出会いがありました。その教義は至って簡単なもので、「感謝しろ!」「世のため人の為に尽くせ!」この二つです。(敬神生活の綱領)また、日本神道での神は、自然現象そのものを示しているので、仏教のように、やれ観音様が、やれお不動様が・・と、偶像崇拝ではありません。自然を神とする事は、目の前に起きるすべての出来事は神々がしている事となります。その為、自己を省みる機会が多くなり、結果として自己の成長に繋がったのです。

私の場合、まず「感謝」する事ができない自分に気づかされました。当然、言葉として感謝を告げる事など頻繁にありましたし、「ありがとう」という言葉もよく使いました。しかし、心深く「感謝」しているか?と問われると、上辺だけの「感謝」だったのです。心から「感謝」していれば、その「感謝」の対象に尽くしたくなるものです。しかし、私は何かに尽くしたいなとどいう気持ちを抱く事などありませんでした。利他的な心が欠如していたのです。

私は、「感謝」できない自分を恥じましたが、とはいえ、これは私の人格の問題なので簡単に「感謝」などできません。なので、神棚を祭り毎日「感謝」する練習をしたのです。日本神道では「感謝しろ!」と言うだけあって、日々感謝なので、私は毎日感謝の祝詞を唱えました。当時は、何度唱えても心を込めた感謝が出来ない自分を情けなく感じ、同時にすごく焦りました。でも、出来ないものは仕方ないので、諦めず毎日毎日唱えたのです。

神道の祝詞は、衣食住に感謝を捧げる祝詞が多いのですが、私にとって衣食住は当たり前の事でした。そして、衣食住に「感謝」できるようになるため、毎日疑似感謝をするのですが、「毎日欠かさず感謝を捧げる」という経験が血肉に刻まれて行きます。すると、無意識に感謝しなければ!と思う機会が増え、少しずつですが、「感謝」の言葉が増えて行きました。そこ回数が増えて行くと、同時に目前の現実が移り変わって行く事を感じました。

今では、衣食住に対して少しばかり「感謝」できるようになったので、社会に貢献したくてしかたありません。そして、その活動が楽しくもあります。
 

 

2、自分が嫌だと思う事と向き合い行動する


自分自身が無意識に感じる「好き嫌い」は、先祖から引き継いだ経験値が原因です。従って、その「好き嫌い」を変える事は、先祖からの因縁を消滅させる事に繋がります。

人は、誰しも自己の欲望を満たそうと日々を過ごしていますが、その為に自己の欲望を満たさないと思われる出来事には無関心になります。即ち、偏った情報のみで過ごしているのですが、その事実に全く気付けません。自分自身にメリットがあるか?ないか?などの損得勘定ばかりで過ごしていると、盲目な状態に陥ってしまうのです。その結果、自分の思い通りにならない現実に対してに解決方法にも全く見当がつかず、挙句の果てには、目に見えない世界のせいにしてしまい、宗教にどっぷり浸かってしまう。自らに降りかかる災いを先祖からの因縁のせいと言われて納得してしまうのも、自分自身の視野が狭いからでしょう。我欲が強ければ強いほど、この状況に陥りやすくなるでしょう。

従って、自己を改善するためには、広い視野を持ちその為の情報を得る必要があります。その方法の一つとして、自分が嫌だと思う事にしっかりと向き合うと良いでしょう。

例えば、嫌だ!と感じたり怒りの感情が込み上げてきたりした時に、どうなれば嫌じゃないのか?どうなれば怒りの感情を抱かないか?と、自分の中にある、その不快感の原因を探すのです。他人に対する不快感は、100%相手と自分との価値観の違いなのですが、自分が不快に感じるという事は、相手の価値観を受け入れられないからです。また、自己の我欲を満たす気持ちが強ければ、相手の価値観を知ろうともしないでしょう。自身の我欲を満たすためには、他人の価値観を知る必要などありませんしね。
 

私は、自分が嫌だと思う事を色々と行動してみました。苦手な食べ物を毎日食べたりもしましたし、嫌いな相手と食事に出かけたりもしました。そんな事を繰り返していると、今まで無意識に嫌だと感じている事がたくさんあった事を学びました。おそらくは、先祖から引き継いだ経験値がそう思わせていたのでしょう。食べ物一つにしても、「食わず嫌い」という言葉があるように、経験した事がなくても嫌だと思ってしまう事が誰にでもあるでしょう。

多くの人は、嫌だ出来事、むかつく出来事を否定し批判します。否定して批判する事は何も問題ないのですが、大切なのは、嫌だと感じる出来事が繰り返されないように「どうすれば良いのか?」を考えて行動する事です。しかし、ほとんどの人が、否定し批判して終わりなのです。なぜならば、どうしたらよいか?と考えたとしても答えが見つからないからです。その理由は、常日頃から自己の我欲を満たす事のみで過ごしている為、自分の視野が狭くなっているからです。要するに、目前の現実を改善するための情報と経験が足らないのです。

「嫌だ!」と思う自分の動機を見つめて行くと、他人の言動の動機も分かるようになります。他人の言動の動機が分かるようになると、嫌な相手の言動の動機も分かるようになり、自分自身がその相手とどう接すれば良いか?も分かるようになります。

自他ともに「言動の動機」を見つめて行くと、人間の本質がよく分かるようになり、自分自身の我欲が原因で嫌な出来事が起きる仕組みも体験できると思います。先祖からの因縁を消滅させるために勤行を続けていても何の解決にもならない事に気付く事ができるかと思います。

 

 

3、自らの心の成長を「善」として判断し行動する

 

私たちの社会での「善悪」の判断基準は、自身の欲望が満たされるか?否か?快楽が満たされるか?否か?で判断されてます。従って私たちの思考も、それに準じて判断してしまうでしょう。しかし、自然界には「善」も「悪」も存在しておらず、私たち人間にとって都合の良い判断基準となり、また、個人にとって都合の良い判断基準でもあります。

人は、誰しも物事を自分の思い通りにしたいとそう思いながら過ごし、そして人それぞれ価値観が異なっています。そんな人たちが集団で過ごしていれば、価値観の違う者どおしが、お互いに自分の思い通りにしたいと争ってしまうのは当然の事でしょう。私たちの社会から、争いが無くならないのは、そんな仕組みがある自然界に生まれ落ちて日々を過ごしているからです。私たちの社会では、人と人との争いは「悪」とされていますが、争う事によって傷つくからです。そんな判断をするのは、私たちが自分が傷つくことを避けるように創られて生まれてくるからでしょう。

人と人とが争うように創られて生まれて来るのには、意味があります。それは、自然界が私たちに利他的な心を育ませようとする仕組みだと私はそう思っております。人は争いの中で、自分にない他人の価値観を知ることができます。そしてその経験により、自らの視野を広げることが出来ます。自分が傷つくことにより、自らが正しいと判断した価値観が相手を傷つける事がある事も学べるでしょう。これらの経験により自らの心を成長させることが出来るのです。

殆どの人が、自分が満たされるか?否か?で「善悪」を判断していますが、「自らの心の成長」はあるか?で判断する事により、今自分自身の目の前にある出来事の辻褄があっている事に気付けるでしょう。普段の生活の中で、自己の思いや言動と目前にある現実との正誤性が合わなくなるのは、私たちの判断基準が大自然の法則から大きくズレている為です。

普段の生活の中で、「良い事」を自己の心の成長とし、社会であれば、人々の心の成長を「良い事」として判断してみてください。今まで自分が「悪」としていた事が「善」として判断できることが多々あると思います。そうやって、物事の判断基準を変えて行くと、目前の現実の受け止め方も多きく変わるでしょう。

 

 

 

4、「悪」を生み出さない努力をする

 

目前の現実は、自分自身が放つエネルギーが引き起こします。そして、自分自身のエネルギーは、自己の思いが創り出します。従って、どんな「思い」での言動を繰り返しているか?によって、目前の現実が大きく変わってきます。私たちの社会は、言葉や文章でコミュニケーションをとりますが、それは伝達手段に過ぎません。あの時、ああ言った!こう言った!などと他人と口論になったりするのは、言葉に対しての「思い」が、それぞれ違っていれば仕方のない事でしょう。

普段の生活の中で負の感情が多ければ多いほど、目前の現実は悪化してゆきます。不平不満、否定批判が多ければ多いほど、嫌な出来事が増えて行きます。何か目的をもって成し遂げようとしても、何処かで不都合が発生し、思うような結果が得られない事ばかりとなります。何をしても物事が自分の思い通りにならないのは、先祖からの因縁のせいではなく、自分自身の負の感情が原因なのです。

人は、自分に都合の悪い事は、見ようとも知ろうともしないものです。自分の都合の良い所ばかりを見て、物事を自分の思い通りにしよとしてしまうのです。その為、自分を「正しい」とし、自分不都合な相手を「悪」とします。「悪」とは、自分が「悪」としたものだけが「悪」なので、「悪」を生み出した分、負の感情が増え、目前の現実が空回りするでしょう。従って、「悪」を生み出さないようにする努力が必要です。

「悪」とは、自分に都合の悪いものに過ぎないので、自分の思い通りにしたいという思いが強ければ強いほど、「悪」を生み出す機会が増えます。要するに不平不満、否定批判が増えるのは、自分自身が強欲だからです。自分が満たされる事を優先するのではなく、相手を満たす事を優先できれば、「悪」を生み出す事は減るはずです。「利他的な思い」を増やせば良いのです。

その為には、自分が負の感情を抱くたびに、自分が何を求めているのか?どうなれば満たされるのか?をしっかりと直視する癖をつけると良いでしょう。くだらない事が理由で負の感情を抱いている自分に気付けるはずです。それを、繰り返していると自然に「悪」を生み出さなくなり、目前の現実が移り変わって行くでしょう。

 

5,偽善行為を繰り返す


私たちは、自己の欲望を満たすように創られれ生まれてくるので「他に尽くす行為」は、簡単にできる事ではなりません。どうしても、自分にメリットがあるか?ないか?で、物事を判断してしまうからです。しかし、利己的な言動を繰り返していると、どうしても辛く繰しい出来事に苛まれてしまいます。それは、私たちが生まれ堕ちたこの自然界がそう創られているからです。

「他に尽くす行為」は人生で必要不可欠な行為となり、昔の人たちは「徳を積め!」と、そう言いました。逆を言えば、「徳」がなければ、嫌な出来事が増えるのは、当然という事です。目前の現実が、どうしても自分の思うように行かないのは、「徳」がないだけなのです。従って、「徳を積む」事で目前の現実は好転します。

先祖からの因縁を消滅させる事とは、自分自身の人格を改善する事です。辛く苦しい出来事ばかり起きるという事は、不徳を積んでしまう人格という事になります。厄介なのは、生まれ持った人格なので、なにをどう改善すれば良いのかが、解らないというところでしょう。

人格を改善するという事は、自分自身の価値観を変える事と同義です。自分自身の価値観は、経験によって変わるので、新たなる経験を繰り返す事で価値観が変わり、人格も変わります。もともと不徳を積んでしまうような人格を背負っているのであれば、真逆の行為に当たる「徳を積む」行動を繰り返す事により、その経験値を血肉に刻んでゆけば良いのです。その結果、価値観も変わり人格も改善され、目前の現実も好転してゆくでしょう。

神仏に祈ったり、経典を唱えたりする時間があるのであれば、その時間をボランティア活動に費やし、そんな活動へ頻繁に参加した方が、断然効果があると思います。